Sunday, February 19, 2017

映画と映像的記憶

 過去の鮮烈な記憶は、だいたいにおいて映像やイメージであることだろう。「誰それが誰それにかくかくしかじかのことをした」というような言語的な事態に先立って、映像的なイメージは、われわれの記憶を占領している。しかしながら、私たちは言語にとらわれるという運命を担っている。そのような鮮烈なイメージを、イメージそのものから引きはがし、言語化しなければ気がすまないのだ。
 われわれの日常においても、つまり現在においても、映像的記憶は、私たちにときおり侵襲してくる。過去のいやな出来事が突然思い出されたりする。このようなとき、私たちはまずどのようにその映像的記憶に対処するだろうか。
 まず大事なことは、このような映像的記憶の侵入は、阻止することができないということだ。それを忘れることはできないということだ。映像的記憶はわれわれのうちに土足で侵入してくるのだ。であるから、その映像的記憶を言語的に解釈するということを私たちはしがちである。つまり、「あの出来事はつまりこのようなことだったのだ」という暫定的な説明を、映像に対して付与するのである。
 しかし、そのような言語的解釈には終わりがないようにみえる。なぜならば、与えられた説明に対して、映像的記憶は「説明の説明」を際限なく要求し続けるからである。それほどまでに映像やイメージというものは、私たちにとって強烈で理解しがたいものなのだ。


 さて、ここで、映画と映像的記憶の関係について考えてみよう。つまり、映画をみるという営みと、過去の映像的記憶とのかかわりである。映画をみることは、過去の映像的記憶を呼びさますことでもあると思う。映画による映像的表現は、私たちの過去の映像的記憶とリンクする。しかしそのさなか、つまり映画という体験のさなかにおいては、映像は言語的な解釈や説明を要求しない。言語において「説明の説明」を無際限に要求したような強迫が、そこでは中断される。
 以前の記事(→「エロティックな映画について」)において、「映画をみることはトラウマの治療ではないか」と書いたのは、このような意味においてである。言語化の不能におちいった過去の記憶や体験が、まさに今、映画をみるという営みによって、現在において再体験されるのである。そしてこのことは、映像的記憶に対して、言語によってなされうる「説明の説明」など問題にならないほどの、説得的な説明であるのだ。