Saturday, February 18, 2017

ロマンポルノ・リブート・プロジェクトを振り返って

 ロマンポルノ・リブート・プロジェクトの全五作品をみ終えた。ひとまずFilmarksにあげた感想を列挙しておく。それぞれ観賞直後に書いたものである。

『ジムノペディに乱れる』
 板尾創路演じる主人公が完全にハマり役でした。性に逃走する男の悲哀が感じられた。男性目線の性という印象だけれど、これは僕が男だからだろうか。女性がみたらどのような感想を抱くのか気になる。

『風に濡れた女』
 ジャック・ドワイヨンの『ラブバトル』を彷彿とさせるスポーティーな濡れ場と映画全体に漂う軽さ。独特の空気感がよかった。間宮夕貴はまさに作品に「肉迫」した演技を見せてくれて圧巻。

『牝猫たち』
 めちゃくちゃよかった!こういう映画をみるとなぜか心が浄化される…。傷つけ、傷つけられながらも生きるひと。傷つくことをおそれるひと。傷ましい。けれど、彼女たちとの交流の中でふと浮かびあがる優しさと、そして切なさと。

 『アンチポルノ』
 こじらせの極みだけれど、狂っているのがどちらなのか、はたして誰なのか、わからなくなる。言葉にしたくてもなかなかできなかったことを100倍でっかくして言ってくれた監督に感謝。最高です。

『ホワイトリリー』
 濡れ場の美しさは五作品中随一ではないだろうか。物語よりも官能の予感やうつりゆきにドキドキさせられてしまう作品。


 ロマンポルノ・リブート・プロジェクトを通して考えさせられたこと。それは、性、セクシュアリティに対して自分はどのように向き合うのか、向き合ってゆけばよいのか、ということである。

 おそらく私は今まで、性の問題を重くとらえていたと思う。しかし、ロマンポルノにおける性は、どこか愉しさがあった。特に、最初の三作品ではときどき笑いをさそうシーンがあったことが印象的だ。それは、性を重くとらえすぎていた自分を、多少なりとも解放してくれるような愉しさでもあった。
 しかし、性は依然として、私にとって不可解なものであることに変わりはない。『アンチポルノ』に両親のセックスの描写があったが、私にとっての性とはまさにそこ(自身の起源としての両親の性行為)に行きつくのだ。そしてそれは、永遠に謎であり、恐怖であり、不安や嫉妬をかきたて続ける。
 一方で、『ホワイトリリー』では、レズビアンの性が美しくえがかれていた。それは私にとって魅力的だった。なぜなら、レズビアンは〈不能〉であるからだ。出生、つまり自分の存在の起源へと結びつかないレズビアンの性は、その光景のただなかにあっては、つかの間の幻想を私に与えてくれた。
 しかし、レズビアンの〈不能〉を理由としてレズビアンを純粋化、理想化することははたして誠実であろうか。自分の中の男性性に対する嫌悪と自己否定が彼女らに投影されてはいないか。私はこのような批判にさらされたのである。このような自分は、『牝猫たち』の中の「傷つくことを恐れる男のあり方」に、ある仕方で重なった。
 
 ただ、批判にさらされたとはいえ、私にとって毒となったのみではない。そこには自分を肯定する契機となりうるものも、多くあった。ロマンポルノ・リブート・プロジェクトはこのような、性に対して不完全な自分のあり方を受け入れるきっかけにもなったからだ。
 性やエロティシズムは私にとって謎であり続け、だからこそ私は不完全であり続けるのだけれども、それを自覚していくことは、生きるうえで無駄にはならないのかもしれない。