Sunday, January 29, 2017

『この世界の片隅に』〜生きることとは〜

 究極の悲惨さにたいして、私たちは、それをただただ受け入れるしかないのだろうか。映画『この世界の片隅に』では、戦争という暴力をただただ受動的に引き受けなければならない生活者としての人間と、主人公すずの性格としての受動性が共鳴する。すずはただ悲惨さを受け入れ、涙し、笑った。それを私たちがどう受け取るかは、私たち次第である。
 この作品を戦争映画としてみるならば、戦争という悲惨さをどのようにえがいているか、ということがまず問題となるだろう。戦争の悲惨さを露骨に生々しく表現することで我々にうったえかけるという方法とは全く逆から光をあてた作品だといえる。それは生活者としての人間、生きる人間の視点である。そこにえがかれていたのは、「悲惨さのうちにあってなお、強く生きている」という姿にとどまらない、生きるうえでの根源的な何か、レヴィナスのいうような「享受」の次元でもあったように思う。
 ひとは呼吸するために呼吸し、飲食するために飲食し、散歩するために散歩する。「それらはすべて生きるためにあるのではない。そのいっさいが生きることである」(『存在することから存在するものへ』)。人間は大気によって生きている。エレマンを糧とし、始原的なものを享受することで生きているのである。(熊野純彦『レヴィナス入門』ちくま新書、1999、p.106)
 主人公すずや、彼女をかこむ人びとは、生きるために生活をし、食事をし、笑い、泣いたのではない。それ自体が「生きること」であったのだ。戦争という悲惨さに直面し、喪失を身をもって経験したとしても、この世界は存続してゆく。それはひとつの悲惨である。しかし彼女らは、それ自体が生きることであるところの「享受すること」を忘れなかった。これは、私たち現代人が忘れているあり方ではないだろうか。
 この作品における真の悲惨さとは、「戦争による悲惨さ」ではなくて、「戦争が我々にふりかかってきても、世界はなお存続してゆく」ことの悲惨さなのではないか。であるならば、この問いかけは、戦争を経験していない現代人においても痛烈な意味を持つのではないだろうか。なぜならば、われわれは、とりあえずの平和のうちにあっても、このような「世界の存続」を経験しているからだ。
 『この世界の片隅に』では、人びとのひたむきな「享受」によって、悲惨さのうちにあってさえ、それが楽しさや笑い、素晴らしさに反転しさえした。これは普遍的な問いかけであろう。それは、戦争というできごとをこえて、悲惨さのうちに生きる意味をわれわれに投げかけるのではないだろうか。