Wednesday, November 16, 2016

映画を好きであるとはどのようなことか

 僕は映画が好きである。とりわけラース・フォン・トリアーの映画が異常なほど好きである。そう自分では思っている。しかし、本当にそうなのか。そう問わずにはいられないのだ。なぜならば、僕がラース・フォン・トリアーの作品のどのようなところが好きなのか、いまだによくわからないからだ。今までこのブログでもトリアーについて書いてきたけれど、こうして文章にすることで、作品に対する説明を与えることはできるが、自分が作品に強く惹かれ突き動かされたことの内実はいつまでたっても宙に浮いたままである。これは映画に限った話ではないかもしれない。たとえば、自分の恋人をなぜ好きなのかわからない、ということはよくある。そして、「顔が好き」、「性格が好き」、など、様々な理由づけをすることはできるが、好きということそのものの内実はいつまでたってもわからず、ついには「自分は本当に恋人のことが好きなのか」と自問自答するというのは、恋の苦悩のひとつの姿であろう。いや、恋愛の問題に関してはおそらく異論はあるだろうが、映画に関しては、僕はまさにこのような葛藤を抱えているのだ。
 映画理論家のクリスチャン・メッツは『映画と精神分析』において、好きな映画に関する普遍的言述について語っている。精神分析にもとづいた、かなり鋭利な主張だ。
 普遍的言述とは、恐怖症に類する(また同時に恐怖症予防ともいえる)一種の前駆的構築作業であり、好きな映画を害する可能性のあるすべてのものに対し前もって修復作業を行なっておくことだといえる。また、それは時に迫害的な逆流を伴うにしても、抑鬱的な行動であることに変わりなく、映画愛好家自身の趣味が今後変わるかもしれぬことに対しての無意識的防御であり、多少とも逆襲的要素の混じりあった、万が一にそなえての防衛である。表面的には理論的言述の特徴をそなえつつも、実際のところ問題となるのは、偏愛する映画(これだけが唯一、真に重要なもの)の周囲の土地を占領し、攻撃者がやってくる可能性のある道をすべて閉鎖することである。(『映画と精神分析 想像的シニフィアン』鹿島茂訳、1981、白水社、p.25)
 つまり、この主張によると、僕が普遍的言述(厳密には普遍的であるようにみえる言述)を繰り返しているのは、自分の偏愛するトリアー作品を嫌いにならないようにするためだということになる。たしかに、僕が映画を好んでみるようになった初期のころにトリアーの作品の多くをみたし、それが僕の映画的嗜好の基準になっているのかもしれない。メッツの主張は、僕の抱えていた「本当に好きなのかどうか」という葛藤を一挙に鎮静化する力を持っていた。
 しかし、それでも依然として残る疑問がある。それは、「現に、まさにこの映画を好きだというこの事実はどのようなことか」ということだ。僕がラース・フォン・トリアーの映画に対して見出している比類のなさとはいったい…。それを偏愛する当の理由は未だ謎のままである。精神分析的には、欲求は充足されうるが、欲望は充足されないという。「本当に好き」という状態がありえないからだ。僕が好きなものは、僕に、それについてもっともっと知りたいと思わせ、充足をいつまでも先送りにする。そのことが、本当に好きということなのかもしれない。