Tuesday, November 15, 2016

「ドグマ95」について

 「ドグマ95」は1995年にラース・フォン・トリアーらによって提唱された映画運動である。そしてこれは、「純潔の誓い」という10個の規則によって縛られている。

「純潔の誓い」
1.撮影はすべてロケーション撮影によること。
2.スタジオのセット撮影を禁じる。
3.映像と関係のないところで作られた音(効果音など)をのせてはならない。
4.カメラは必ず手持ちによること。映画はカラーであること。照明効果は禁止。
5.光学合成やフィルターを禁止する。
6.表面的なアクションは許されない(殺人、武器の使用などは起きてはならない)。
7.時間的、地理的な乖離は許されない(つまり今、ここで起こっていることしか描いてはいけない。回想シーンなどの禁止である)。
8.ジャンル映画を禁止する。
9.最終的なフォーマットは35mmフィルムであること。
10.監督の名前はスタッフロールなどにクレジットしてはいけない。
(「ドグマ95」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』、2014年3月28日 (金) 04:54 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

 これはいったい何を意味しているのだろうか。トリアーはこれにより何を意図しているのだろうか。僕なりに考えてみたいと思う。
 まず基本的なことは、これは「ルール」であるということだ。自由であるはずの映画製作において、ルールを設けているのだ。僕がまず連想したのは、たとえば、トランプのゲーム「大富豪」であらかじめルールを決める行為だ。「大富豪」にはいろいろなローカルルールが存在する。数あるローカルルールの中から、統一された規則を選び出さなければならない。しかし、究極的には、選んだまさにそのルールを選ばなければならないという根拠はない。つまり、ルールは何だって良いのだ。「ドグマ95」にもこのようなことがいえる。「純潔の誓い」の中に、何か絶対的なものがあるとは思えない。これらのルールが守られなかったからといって、「映画として」大きな問題が起きるとは考えられないのである。問題があるとすれば、それは規則内のことであって、映画という大きな枠組みにおいては、関係がない。すなわち、これは「ゲームの」ルールなのだ。これは、たとえば学校や社会のルールとは根本的に性格を異にするものだ。学校や社会のルールは共同体を縛るものであるが、ゲームのルールは共同体を活性化させる。そして、繰り返しになるが、ルール自体にはあまり意味がない(もっとも、ルールひとつひとつの個別性においては意味があるのだが)。もっと言えば、意味がないというそのことがルールの意味になっている。
 「黄金の心」三部作のひとつである『イディオッツ』は「ドグマ95」にしたがって製作された作品である。『イディオッツ』は、障害者のふりをして人びとの偽善を暴くために結成されたある集団の物語だ。いわば、そのようなゲームに興じる集団だ。そしてそれはゲームでなければならない。彼らの、「障害者のふりをする」というルールが意味を持つためには、彼らの行為がゲームでなければならないのだ。なぜならば、たとえば「大富豪」のルールが意味を持つためには、それが「大富豪」というゲームでなければならないからである。規則を規則として成り立たせるためには、それがゲームであることが必要不可欠だ。
 映画とは何か。映画とは共同体を縛るものではない。そうであってはならない。映画とはもっと自由な創造的行為であろう。とすれば、映画はひとつのゲームだといえないか。「ドグマ95」は、ゲームのなかで意味を持つ。