Saturday, October 22, 2016

ラース・フォントリアーの映画に救いはあるか

 ラース・フォン・トリアーの絶望的な作品を初めて観て以来、「彼の作品に救いはあるか」ということをずっと考えている。答えが出るとは到底思えない、そして、答えを出そうなどとも思っていないのだが、ここにほんの少しの思考の軌跡を書くことも塵ほどの価値はあろうと思われる。
 トリアーはほとんどどの作品においても、常に最悪を見据えている。たとえば『メランコリア』においては、最悪としての「世界の終焉」がある種のショック療法として絶望者に働きかけるということを見た。
 そして、彼の作品の「最悪」は、彼のうつ病的なものに裏付けられていると言ってよい。たとえば斎藤環はこのように述べる。

 ラース・フォン・トリアーは、自他共に認める「うつ病」圏の映像作家だ。
 彼の発言として知られる「基本的に人生におけるすべてが怖い」という言葉は、真のうつ状態を実際に体験したものならではのものだろう。ただし、その「うつ」は、最近流行の軽症タイプのものではない。おそらくは循環気質圏内のものでもない。彼の「うつは、そう言って良ければ古典的タイプのうつ病、いわゆるメランコリー親和型のうつ病に限りなく近いもののように思われる。*1

 「人生におけるすべてが怖い」という感覚は、まさに「最悪」の状態だ。世界の中の部分的なものから感じる恐怖は「不安」であったり「症状」であったりするだろうが、すべてにおいて絶望していればそれは「最悪」である。出口なしの状態だ。このような彼のパーソナリティは、彼の作品を理解する上でかなり重要な要素だ。なぜなら、彼の作品を作る動機が、絶望者としての彼を救うことだと思われるからだ。トリアーの作品には、彼自身の障害を反映しているのか、障害者と見受けられるような人物がよく登場する。*2「感動ポルノ」だとか「障害者を美化している」とかいう感想をたまに見るが、それは当たらない。なぜなら、彼は自分のために映画を撮っているからだ。そこに障害者がいるとすればそれは彼自身で、彼の作品は彼の治療でしかないのだ。
 この絶望状態は最悪であるがゆえに、救いがない。しかし、救いがなくても生きてゆかねばならない。救いがないことから救いを見出すという試み。彼の作品はある種の宗教的な次元に接触しているのではないかと思われる。たとえば、佐々木敦は彼の作品の救済について、このように言う。

 ラース・フォン・トリアーの映画、とりわけ「鬱三部作」は、一言でいうならば、救済とその不可能性を、ただそれのみを語っている。その無理、その無効、その無意味を。それは彼自身が体験した鬱と、そのセラピーから発想されたものかもしれない。それは結局わからない。だが彼は明らかに、誰かを(自分を)救おうとする者に無能を宣告するために、これらの物語を語っている。この意味で、トリアーの映画はどれも、徹底的に倒錯した宗教映画だと言える。救い主は嗤われるためにのみ、彼の映画に召喚されているのである。*3

 このような見方を受け入れるならば、トリアーそのひとは、「自分を救済するために映画を作り、そしてその作品はその救済を否定するようなものである」ということになる。いわば映画による、壮大な自傷行為である。
 絶望するものは、いったんは自分を救おうとする。しかし、トリアー作品においては、それがいつも挫折させられる。いったんは救われるが、すぐに、現実へと、奈落の底へと突き落とされるのだ。
 「ラース・フォン・トリアーの映画に救いはあるか」、あるひとたちはこれに「Yes」と答えるだろう。僕も含めて。しかしトリアーの作品は、それに「No」を突きつけるのだ。ここに葛藤がある。救いを求めて戦って、打ちのめされる。この不断の運動が、トリアーの映画のもつ力ではないかと思う。しかし、この否定の力に屈してはいられない。僕はトリアーの作品に、田口ランディ氏の次のような言葉を投げかけ続けたいと思う。

 なにも否定しない、なにも肯定しない。相対化してみせるだけ。そんなラース・フォン・トリアーの作品は、悲惨がゆえに、救われる。*4
*1:「欲望の倫理、またはセクシュアリティ」(『ユリイカ』2014年10月号、青土社、p.85)
*2:たとえば『奇跡の海』のベス、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のセルマ、『メランコリア』のジャスティンなど。
*3:「救い主が嗤われるまで いわゆる「鬱三部作」について」(前掲書、p.74)
*4:「オーロラの彼方に ニンフォマニアック 聖なるものは俗なるもの」(前掲書、p.108)