Wednesday, October 12, 2016

園子温『恋の罪』

 園子温監督の『恋の罪』を観た。人間の性、愛を志向するために肉体的な快楽に溺れること……ひとがいつも抑制しているけれど、しかし人間にとって根本的なことに肉薄している作品だ。時に肉薄しすぎて、笑いを誘う場面すらあった。
 性に対して、また、愛に対して突き進むひと、突き進むよりないひとは、そのことにどんなに救いがなくても、堕落していようとも、死にむかっていようとも、どこか、ぬくみがある。その優しさはとても鋭くて、胸が締め付けられるような思いだ。僕の大好きなトリアーの作品を観ているようだった。
 人間はいつも、言葉と肉体のあいだをさまよっている。肉体の快楽のうちに飛び込みたいのだけど、それはとてもおそろしいことだから、言葉に逃げる。でも、ひとたび言葉が肉体を持ってしまうと、それは肉体のもつ痛みや、暴力、死への梯子となる。これは絶望的なことだ。
 しかしこのような、絶望的な闇を映した作品が、なぜ不思議な優しさのようなもの(うまく言えない。逃げなのかもしれないが、言葉にはこれを表す単語はもはやないのかもしれない。今はそれを優しさとしておく)を放つのか、それをずっと考えている。
 映画に救いはあるか。僕は映画によってつかの間の救いを得ている。人生に救いなんて、あると言えばあるし、ないと言えばとことんない。映画による救いは、たとえばセックスによる慰めと同じようなものかもしれない。でも問題はそんなことではなくて、そのように分節化できないことだ。分節化できないことは、映画だけとは言えないかもしれないけれど、映画のようなものにしか、えがけないものだと思うのだ。だから僕の好きな映画はそれだけで偉大だ。僕はそういう体験を「救われた」と言うことしかできなくて、なんかちがうと思いながらも、でもそれはとても楽なことだから、そう言ってしまうのだが。