Tuesday, September 6, 2016

『リップヴァンウィンクルの花嫁』をみて

 ここ数ヶ月間で、自分に変化がおきたと感じる。大仰に言えば、世界の見え方がたしかに変わったのだ。
 それは『リップヴァンウィンクルの花嫁』を観た時からだった。僕がそれまで見ていた世界が一瞬にしてひっくり返ったような感覚を覚えた。でも僕は決して、映画すなわち芸術のみが人生を変えるようなものであると言いたいわけではない。「この世界はさ、本当は幸せだらけなんだよ」と真白(Cocco)は言っていたけれど、これは比喩表現でも何でもなくて、「世界(日常)の見方が変われば、幸せのかたちも変わるよね」ということだと思う。大事なことは「何を見ているか」よりも「それをどのように見ているか」だということに気づいた。どんなに立派な職業について、どんなに高尚な芸術に精通していようとも、それが形だけのものであれば、すべては死んでしまう。これは当たり前のことだけど、大事なことだ。少なくとも僕にとっては。
 僕は一時期、アイドルオタクやアニメオタクに訳もなく憧れていた時期がある。彼らにそういうアイデンティティがあることが、羨ましかったのかもしれない。僕はオタクという形だけのものを得るためにがんばった。そのときの僕はたぶん、「何を見るか」ということだけを追いかけていたような気がする。アイドルやアニメの本当の魅力には、見向きもせずに……。そんなところに、幸せはやってこないよね。
 形だけの高尚さとしての哲学やクラシック音楽というものにも手を出した。
「君は何をしている?」
「作曲を。以前は哲学も」……
 僕はその事実に酔いしれていた。眼に見えるものにすがりついていたのだ。
 アイドルの流行歌よりもシェーンベルクの音楽が優れているなんてことはない。もしそうならみんな現代音楽をやればいい。それは、アイドルの音楽の方が多くのひとの心を掴んでいるから、ということでもない。僕が大切にしたいのは対象に対する情熱の方だ。
 世の中には眼に見えないもの、表に出ていないものがたくさんある。眼に見えるものだけ追いかけていても、ついてくるのは非現実感。眼に見えないものを感じとる人はきっと必ずいるし、自信を持っていいと思う。重要なのは、眼に見える言葉だけではない。眼に見えない幸せは、生きている実感となる。それを捉えるには、必ずしも芸術や文学に触れる必要はない。なにげない日常の中にも幸せはあるし、暗い夜の闇の中にも光が生まれたりすることもある。「この世界は、幸せだらけ」なのだから。