Wednesday, August 31, 2016

『アンチクライスト』における治療とは

 『アンチクライスト』は難解なラース・フォン・トリアーの作品のなかでも、特に一筋縄ではいかない作品だ。だから、作品の魅力をすべて語ることはここではできないのだが、僕なりにこの作品から感じ取ったことを記したいと思う。
 ある夫婦が性行為の最中に子どもを見逃して死なせてしまう。妻(シャルロット・ゲンズブール)はそのことで心に深い傷を負う。セラピストの夫(ウィレム・デフォー)は彼女にセラピーを施すのだが、事態はどんどん悪化していく…。
 このストーリーによってトリアーが示したことのひとつは、「トラウマ(心の傷)」に対する態度であると思う。つまり、彼女は子どもを死なせたことがトラウマになり恐怖を覚えたが、夫はそれを忘れさせるどころかその恐怖にあえて対峙するという暴露療法(エクスポージャー)的なセラピーを行っている。現に彼らは、性行為によって子どもを死なせたのにもかかわらず、その後もセックスばかりしていた(最終的にはそれは暴力まで発展するのであるが)。これは「トラウマを癒す単純な手段はない。トラウマを癒すにはトラウマに対峙しなければならない」ということを示唆していると思った。
 僕自身も性行為に対して、トラウマティックな感情がある。セックスに対して恐怖感がある。しかしその恐怖感は、その恐怖感ゆえに僕を魅了するのだ。それに対峙することがある種の癒しになる。恐怖感というのはこのような自己治療的な本性があるのではないかと思うのだ。そしてこの映画のストーリーによってこの考えがより強固なものになった。
 しかし、トリアーの作品が単純でないのは、その治療が単純な癒しではないということだ。それは「癒しなんてそもそもない」のでもないし、逆に「救いがないことが癒しである」のでもないだろう。治療をひとたび語ってしまうと、何かが抜け落ちてしまう感覚がある。本質的に、治療というのは語りえないものなのかもしれない。