Wednesday, August 17, 2016

『ドッグヴィル』〜ひとは倫理的であろうとするほど傲慢さを免れないのか〜

ラース・フォン・トリアーの映画「ドッグヴィル」をみた。僕がこの映画をみて考えさせられたことはこれである。「ひとは倫理的であろうとするほど傲慢さを免れないのか」……。
 ギャングに追われたグレース(ニコール・キッドマン)は、「ドッグヴィル」という村に逃げ込んできた。彼女は村人たちに受け入れられようとするのに必死になる。村人たちは次第に、彼女をかくまってやった見返りを求めるようになるし、彼女はそれでも受け入れられるためにその要求をのむ。そしてその要求は次第にエゴイスティックなものになっていった(彼女は男たちの娼婦にすらなった!)。そして最終的にギャングたちがグレースを連れ戻しに来る。グレースはギャングの親玉の娘だったのだ(グレースは父親と仲違いして、この村にやってきたのだ)。グレースの父親は、「グレースが村人たちを無条件に赦した」ことを傲慢だとして糾弾した。つまり、「グレースは村人たちを「寛容」の精神から見下している、彼らと同じ道徳的水準に立つならば彼らに罰を与えなければならない」と。彼らのやったことは「悪いこと」なのだから……。そしてグレースは父親に従う。グレースとギャングたちは、村を焼き尽くし、村人たちを皆殺しにしたのだ。 
 人は他人より倫理的であろうとするほど傲慢さを免れない、という身も蓋もなさ。グレースは倫理的であろうと「努力」した。「私が同じ立場だったならば、同じことをするだろうから」という理由で彼らを赦したのだ。しかし、「赦すこと」が相手より自分が上に立つという意味で傲慢さであるのなら、それを断罪することも相手より倫理的に上に立つことになり、傲慢さを免れないだろう。「自分は他人より傲慢ではない」と思いながらできるだけ倫理的に振る舞う姿勢がそもそも傲慢である、というジレンマを打破できない。どうしたらいいのだろうか。  
 これをみた数日後、飲みの席で僕を含めた2人である1人の傲慢さを糾弾していた時、同じことを思った。エゴイスティックな感情の表出は、傲慢さとして退けられる。僕らは彼をこう糾弾した。「僕らは自分のエゴイスティックな感情をあまり口にしない、それが傲慢さであることを知っているからだ。だから君は僕らより傲慢だ」
 僕ら2人は、彼よりも自分たちが倫理的だと信じて疑わない。しかし、彼を糾弾する「現実的体制」は十分に整っていた。だからこそ僕らは彼を糾弾したのだ。現実的には、彼は傲慢さを断罪されるだろう。ただ、こうも考えた。深いところでは、僕らは同じ倫理的水準にいるのではないか、と。(自身の傲慢さを「自覚」したとしても、こんどは「自分は他人よりも自身の傲慢さを自覚している」という点で傲慢さを免れないだろう。「自覚」を神聖視しないかぎりにおいて。)
 ひとはみな傲慢であるのか、もしくは、倫理的であるための道がまだ存在するのか。「ドッグヴィル」はとてつもなく大きなことを、僕に気づかせてくれた。