Sunday, April 2, 2017

思考

言葉を網羅することで、こぼれ落ちてしまうものがあると思う。
ときには、心の中でただ噛みしめたり、過ぎ去るのを眺めたりしたいと思うけれど。

Wednesday, March 29, 2017

グザヴィエ・ドラン『わたしはロランス』

 〈本当の自分〉を追い求めることはこんなにも美しい、と素直に思えた一方で、それは社会との隔りでもあるという現実も垣間見た。しかし、このような普通と異端との対立を超克するものも、逆説的にも、自分であれ他者であれ〈本当の自分〉を愛そうとすることなのではないか、と思わせる。

 〈本当の自分〉をめぐる生(性)に対するドラン監督の思いが作品に反映されているように思えて、不思議な高揚感に包まれた。


(グザヴィエ・ドランの作品は、いつにもまして、自分と他なるもの(人生、愛、家族など…)に直面する場であり、そこにおいて他者は、願望によって歪められずに、ありのままにある。そこには、われわれの願望充足こそないが、迷いのなかに〈気づき〉がある。)

Monday, March 20, 2017

明日になれば今の気持ちは過ぎ去ってしまうかもしれない

 最近すっかり映画が好きになった。去年から突然にそうなったのである。なぜだろうかと考えているがわからない。理由などないのだろう。こんな調子で、明日には映画が好きでなくなっているかもしれない。たとえば写真が好きになっているかもしれない。昨日と今日、今日と明日にはたしかな断絶がある。

 長らく、自分は音楽をやりたいけれど音楽を知らないまま死んでゆくのだと思い込んでいたし、ひとたび音楽を手にしてピアノを弾き始めたら、今度は、自分には音楽しかないのだという思い込みによって自分の可能性を殺していた。もちろん、音楽そのものとは全く向き合えていなかった。音楽にすがりついていた。


 「明日になれば今の気持ちは過ぎ去ってしまうかもしれない」。そう思うと、不思議と気が楽になった。〈今〉の純粋さが際立つからだろうか。

 音楽に対する思いも、以前とは変わった。今は音楽と自分との〈遠さ〉があるけれど、音楽に対する自分の純粋さにおいて、正直であることができるようになった。

Sunday, March 19, 2017

『ブルーベルベット』〜甘美な傷〜

‪ これほどまでに、人間の内なる得体の知れないものに対して恐怖をいだいたことはない。そして、それが怖るべきものであるのは、その恐怖が人間自身、つまり私自身に対する恐怖でもあるからだ。この映画をみるものは、自分自身の内面を凝視しなければならない。そしてことごとく傷めつけられる。


 そんなことが私たちにとって必要なのだろうか?「いや、私たちは正常だ。私たちは問題ない。私たちは……」‬ ‪。そう言い続けなければならない。まるで弁解のように。‬

 このような作品は、おもしろいなどという形容詞がまったくあてにならない類いのものだ。「見てしまったが最期」である。「甘美な傷」とでもいうべきか。